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■ 移住者の声

国立大学法人北海道大学 北方生物圏フィールド科学センター 和歌山研究林

千井芳孝さん

20年の経験活かし、ケガのない林業を目指す

古座川町北部にある平井地区。ほどよい寒暖差のある山間部の気候が柚子の生産にちょうどよく、時期になると爽やかな柚子の香りがまちのあちらこちらで漂う。約100年ほど前の1925年、旧北海道帝国大学が暖帯林に関する教育および研究を目的にした施設「和歌山研究林」を平井地区に設立した。
大阪府出身の千井芳孝さんは、工場で製造系の仕事をした後、平成14年に京都府出身の奥さんとともに古座川町へ移住。森林組合で約10年間働き、和歌山研究林に転職した。移住してから早20年。夫婦での移住は、女性の意見や、移住後に女性が置かれる状況を考えることが大事だと千井さんは言う。移住当初の出来事やその時に抱いた感情、そして現在に至るまでを鮮明に思い出し、紆余曲折を経験した千井さんだからこそ話せる体験談を語ってくれた。

「全部包み隠さず話したら、彼女も受け入れてくれました」
移住に傾く本音と、断られる不安のなかの葛藤。

-千井さんは古座川町での暮らしが長いと伺いました。移住されてからどのくらい経つんですか?

千井さん:2022年11月でちょうど20年なんですよ。今考えてもあっという間ですけどね。20年も住んでるっていう感じがないですね。やっぱり都会に住んでたときほどストレスを感じないので、それゆえに時間の経過が早く感じるのかもしれないですね。

完全に解放されたわけではないですけど、大阪で仕事してるときと比べると楽になったという感じがあって、その分、面白いことに目が向いたりとか、やりたいことをやったりしてるうちに、あっという間に時間が経ってしまったみたいです。

和歌山研究林で取材に応える千井芳孝さん

-大阪に住んでいたときは何のお仕事をしていましたか?

千井さん:最初は断熱材を製造したり加工したりする工場に勤めていました。9年くらい勤めたとき、たしか僕が27歳くらいだったと思うんですけど、世の中の景気のあおりを受けて会社の業績がわるくなったタイミングで、業務用の大型クーラーを修理、点検する会社に転職したんです。そこで6年くらい勤めて、30代半ばに差し掛かってくると、結果を求められる責任のある立場になってきて。それがストレスで、自分のなかで段々消化しきれなくなってきて。

魚釣りが好きで週末にストレス発散で釣りに行ってたんですけども、遊びに行っても頭のなかは月曜日の仕事の段取りとかばっかり考えてる自分がおったんですよね。特に何かしたいっていう考えもなくて、ただこのままじゃあかんなっていうのを漠然と思うようになっていました。

-何か状況を変えたいという思いがあったんですね。そこから古座川町に移住するまでのいきさつを教えてください。

千井さん:ある日たまたま新聞で「森で働きませんか?」みたいな広告を見つけたんですよ。大阪ドームでそういうイベントがあるというので興味を持って、プロ野球チームも使うようなグラウンドに降りられる機会もめったにないし、今の嫁さんになる当時の彼女に「行ってみいひん?」って誘ったんです。

大阪ドームの一角に各都道府県の担当者が就業移住相談コーナーみたいなブースを構えてたんですよ。どこにするか考えて、和歌山なら大阪からもよく遊びに行っていて身近に感じてたし、海も山も川もあるということで、思い切って話を聞きに行ったんです。

そうしたら今回のイベントの趣旨や条件とは合わないと言われて。でも担当の人が「和歌山県での就業とか移住を希望であれば、また今後案内を送らせてもらいます」と。それがきっかけで、あとはとんとん拍子に進んでいきました。林業に必要な資格取得の案内が来て、その資格取得の講習会に参加しに行きました。今の嫁さんには言わずに。

ある時、就業相談会みたいなのがあって、今の嫁さんも誘って行ったんです。断られるのが怖いんで、就業相談会に行くとはまったく言わずに「ちょっと和歌山にドライブ行こうよ」みたいな感じで。

木を組み合わせて作るペンケース。木工作品の制作も千井さんの仕事の一つ。


午前中参加した後、お昼ご飯食べながら「あんた、これってもう転職とか地方へ移住するとか、そういう具体的な話なん? 本気なん?」って奥さんに言われて。「本気やで」って言ったら「そんな大切なこと、なんで言ってくれへんの」って。

移住したい理由を聞かれたので、もともと田舎で暮らしたいとは思っていたこと、結婚についても真剣に考えていること、将来子どもができたら自然の中で子育てがしたいこと、を全部包み隠さず話したんですよ。彼女も「それならわかった。私も真剣に話聞かなあかんよね」って言ってくれて。

午後からは彼女の方が積極的になってきたというか。男目線からすると、仕事とか給料とか住むところがどんな感じかとかになるんですけど、嫁は医療体制とか学校、女性の働く場所はあるのかとか、全然俺の頭にはないことを女性は聞くんや、と思って。最後に会場で第五希望まで移住先の希望を出して帰りました。

後日、古座川町役場の人から電話がかかってきて、その場で「お願いします」って返事しました。移住の話が進んでくると、やっぱり彼女も不安があって「正直悩んでる」って言われて。自分で家事なんかほとんどやったこともなかったし、一緒に行ってサポートして欲しいということを正直に伝えたら、何日か後に「わかった」って言ってくれました。

それから移住まで期間がなかったんですよ。4、5か月しかなかったから、その間に彼女にプロポーズして、ご両親に挨拶に行って、結婚式を挙げて、引越しの準備と職場への退職願と……急いで全部やりました。

「移住についてくる家族の気持ち」
就職や人間関係づくりは家族の方が難しい。

-移住後はどんな暮らしの変化がありましたか?

千井さん:僕は、昼間は森林組合へ仕事に行くし、今までやったことない仕事で新鮮さもあるし、一緒に仕事する地元の人とも仲良くなったりとかで良かったんやけど、やっぱり嫁はね。親戚もおらん、友達もおらん、当時は車も一台しかなかったから、家に閉じこもってしまって。「京都に帰りたい」って言われたこともあるし、僕が家事せんことに対してイライラもするし、僕も仕事行ってんのになんで言われなあかんの? みたいな感じで。最初の数か月は喧嘩が多くて結構辛かったですね。

-いつ頃から、どんなふうにその状況は変わっていったんですか?

千井さん:一つの転機はね、森林組合の従業員が増えてきて事務仕事が多くなってきたときに、組合の人に「奥さんどっか勤めに行ってんの? よかったら手伝ってくれんかな」って聞かれて。それから働き始めて、どんどん変わっていきましたね。半年くらい勤めて、次の年度に役場で働くことになって、役場なら若い人も多いのでさらに地元に馴染んでいきました。

-田舎は仕事の選択肢が少ないと言われますが、女性の選択肢となるとさらに狭くなるかもしれませんね。

千井さん:特に正社員がないですね。男性は職種を選ばなければ何かとあるんですけど、女性で正社員ってなってくると、本当に針の穴を通すくらいの職種しかないんちゃうかな。

旦那はやりたいことがあって来るから良いけど、奥さんのことを考えるのが大事だと思います。こういう移住者インタビューも、移住はたいがい旦那が主導で、奥さんや家族がついてくるっていうパターンが多いと思うので、家族側の気持ちを掘り下げて聞いたら全然違う話が出てくると思いますよ。

-人間関係の面では、地域の人たちとの関係は都会より濃くなりましたか?

千井さん:そこはちょっと想像してたのとは違って。雇用事業で移住する形やったんで、明神地区にある定住促進住宅っていうところに住んでるんですよ。普通やったら、空き家とかに入居して地元の人と交流が……っていうのがあると思うんですけど、僕としては拍子抜けな感じでした。でも森林組合での人間関係があったんで、都会と比べたら濃いなっていう感じはしますね。

最近はコロナであまり出歩かないようにしてたんですけど、移住した当初はもう遊びまくってましたね。仕事終わったら汗だくだくになってるから、とりあえず川で泳いでから家に帰ったり。森林の仕事って帰ってくるの早いんで、夕方は近所の子どもらとよく一緒に遊んでましたね。

和歌山研究林の近くを流れる川

ケガをして辞める人をゼロにしたい」
林業歴20年の経験を積み重ねた千井さんが、新人育成にかける思い。

-移住した当初は森林組合で働いて、今は北海道大学の和歌山研究林に勤めているということですが、その経緯や千井さんのお仕事内容を教えてください。

千井さん:林業の仕事内容って、苗木を育てるところから始まって、育てた苗木を植える場所を作って、育ってきた枝を落としたり、間伐をしたりという作業があって、山から切り出してくる。それを役割分担して、担当したパートのプロフェッショナルになるという感じで仕事をしていくんですよね。僕は偶然にも全部一通りやってるんですよ。森林組合で10年働いて現場での経験は全部やり切ったというのもあって、自分のスキルアップに繋がる経験ができるかなという感じで研究林に転職しました。

北海道って本州と生えてる木が違うんですよ。日本の林業の産業は杉とか檜とかの針葉樹が主になるんですけど、北海道にはそういう木がほぼなくて松系や広葉樹になるんです。

研究林での主な仕事は、施設の維持管理とか調査研究のサポート、あとは木工作品の制作や、地域の子どもたち向けの木工イベントなどをしています。

-20年間林業に従事してきたということですが、林業の職種のなかでも千井さんは常に新しいことに挑戦してこられたという印象を受けました。今後はどのようなことをしたいと考えていますか?

千井さん:緑の雇用事業という研修制度があって、その講師も10年以上させてもらってるんですよ。和歌山県で新しく林業をしたい人たちに対して、僕の経験から技術とか知識を教えるということをやってるんですよね。そういった形での後輩の育成に重きを置いていきたいなとは思いますね。

とある研修会に参加したときに、林業ってめちゃめちゃケガが多い仕事って知ったんですよ。今、日本国内にある産業の職種の中で一番労働災害が発生する確率が高いのが林業と言われていて。なぜそんなに多いのかっていうと、要はちゃんと教えてもらってこなかったからなんです。ベテランの人たちの仕事を見よう見まねでやるというか。そういう時代ではなくなってきている中で、林業の人材育成のシステムはまったく変わってない。だからケガする人が増えるし、減らないっていうことを教えてもらったんです。




自分が教える立場になったときに、いくら教えてもできない人がいるってことに気がついて、自分のできることが必ずしも教えられるってことではないんやって思い知らされました。スキルなのか言葉なのかわからへんけど、そういうものが今の俺にはないから教えられへんねんなと思って。そこから、ちゃんと教えられるように勉強を始めて、少しずつ講師として呼ばれるようになっていきました。

これまでにも、仕事環境が思ったのと違って辞めていった子もいますし、ケガをする仕事はやりたくないって辞めていく方もいました。悲しいというか、寂しい感じもありますし、特にケガして辞めていくっていうのは、僕はもう和歌山県に関してはゼロにしたいですね。林業の仕事も、ゆっくりですけど働きやすいように変わってきていると思います。

初めて和歌山県から研修の講師やってくれって言われたときは、めっちゃ緊張して前日から胃が痛くなりました(笑)。2時間くらい座学で喋ってくれって。会場へ向かう道中も、もう逃げ出したいなとか思いながら。でも、これも嫁に言われたんですよ。「嫌やったら断ったらいいやん。でもそういうお願いがくるっていうことは、千井さんならできるって周りの人から見られてるんやろ?」って。時々ね、妻がそういうガツンとくる一言を言うんです。妻の言葉に気づかされることが多いですね。

【編集後記】

新聞に掲載されていた広告をきっかけに、移住への道を一歩一歩進んでいった千井さん。その陰には、不安を抱きながらも移住を受け入れ、苦楽を共にした奥さんの存在が強くあったようです。仕事や人間関係など、決して初めから順風満帆というわけではなかった千井さんご夫婦の移住生活ですが、千井さんたちにとっての古座川町への移住の是非は、20年間を振り返る千井さんの表情に表れているように感じられました。千井さんが仰るように、奥さん視点でのお話もぜひお伺いしてみたいものです。